こころとからだの平和バトン(3日め:合気道)

合気道を始めてそこそこの年数が経ち、やればやるほど奥が深くて終わりがないというのを実感しています。もう若くはないし、今生でいけるとこまでいって続きは来世で、という感じ。来世があるかどうか確証はないけれど、あるという前提で(開き直って?)気長にやるしかありません。
合気道では、文字どおり相手の気(の流れ)と自分の気(の流れ)を合流させることが最重要です。気は「気をしずめる」「気のいい人」「気がちがう」等々数えきれないほどの用法がある言葉であり概念ですが、武道的には丹田から起こるエネルギーといってよく(気功とか、気を放つとか)、武侠小説的にはニヤリーイコール「内功」だと思います。長さや強さといった数値に換算できないけれど、達人同志が相対して「む。おぬし、できるな!」と分かるようなエネルギーです。
自分の師匠(拙ブログではしーふーと勝手に呼んでます)によれば気は霊的エネルギーと物理的エネルギーの中間のものだそうです。そして、自分のまだまだ未熟なレベルでの理解によればですが、それはまさしく「こころとからだをつなぐもの」なんだろうと思います。
精神と肉体が密接に結びついていること自体はよく分かる(病は気から、的な)。でも合気道における「気」というものは正直なかなかつかめない。分かったつもりでも分かるとやれるは別、いつかそのうちちゃんと分かりたい、という次元でじたばたしている自分がいます。あっそうかと思った次にあ〜やっぱりよく分からん、その繰り返し。できなくてもどかしいけど、少しでも前進できればよしとする、という感じでこれからもじたばたしながら続けていくんでしょう。
師匠が道場で話すことはしばしば合気道の枠を超えた普遍的な真理と思えるものがあり、自分なりに時々拙ブログにアップしていますが、それとは別に大先輩のM先生が長年書きためたものをまとめた本が昨年できました(市販はしてませんのでご所望の方はうらかわまで)。そこから1つ、自分がとくに好きな文言を引用します。

「氷が水に、水が水蒸気になる時、
ものすごいエネルギーがいるよね。
人間もね、変わるためにはエネルギーがいるんだよ。
固体のままでいる人が、
他の人に共感できるようになると流動体になる。

更に次元の高い人は、
光のようにエネルギーがまっすぐ飛んでいく。
固体のままで固まらないでね。」

合気道は基本的に和の武道であり、愛の武道といわれます。その境地は自分にとってまだ遠く、恥ずかしながらえらい方たちの受け売りなのですが…。
できれば戦わないのが一番だけれど、対立的状況においては最小限のダメージで相手を制する。そのためには合一する。それってすごくむずかしいし、実際、稽古ではむきになって肩に力が入り相手がイテテテとなることもままあります。ただ、正確に技が効くと痛みというより一気にバランスが崩されて一体何が起こったか分からないまま抵抗不能になってしまうというのは何度も体験しました。まるでマジックみたいに、逃れようとしても自分から吸いついたように動けなくなると相当にビビります。
一方で、別に武道の達人を目指さずとも、健康のためにやるのでも全然かまわない。気とかなんだとか深く考えないでとにかくガンガン動いて汗をかくだけでも心身ともにスッキリするので、仕事や人間関係でへこんだ時などは疲れていても道場に行きたくなるという人、けっこういます。しんどい疲れがいい疲れに変わるから。
面白いのは、もともとそうやって気軽に楽しくやっていたのが、気の流れというようなものが感じられるようになると断然モチベーションが上がってくる人もまた多いということ。力を抜けと言われ続け、力を抜いたら技にならないんじゃないの?と疑問を持ち続け、ある時点で、どういうわけか力を抜いたほうが技が効くらしいと気付いた、そこからが本当に面白くて、むずかしい。合気道に限らず、その人にとってライフワークと思えるものはそういうものかもしれません。

なんか今回が一番全然まとまらないですが、これにて書き逃げ。3日間ご清聴(?)ありがとうございました。
せっかくなので宣伝もしておきます。自分が通ってる道場では7月に無料いろいろ体験教室を予定してますので、ご興味のある方はのぞきにきてみてください。また、通常の稽古でも予約不要で体験していただけます。