こころとからだの平和バトン(1日め:映画)

突然ですが、ブログの宗旨がえをしたわけではございません。友人のカメラマン古軸泉さん(https://www.facebook.com/furujiku.izumi)からバトンを受け取りまして、本日より3日間、表題のテーマで――といっても拙ブログは映画・アジア関係・あるいは合気道ネタが中心につき、それに関連させるというかこじつけるというかそんな感じで今日は映画、明日はアジア関係、明後日は合気道がらみで――ちょっと書いてみることにしました。

その前にまず、こころとからだの平和バトンとは?
実は私も3日前に知ったんですが(汗)、広島市西区太光寺の副住職東和空さんの発案により天城流湯治法・杉本錬堂さんからスタートしたものだそうです。Aさんがこのテーマで3日間、ブログなりフェイスブックなりツイッターなりでアップし、Aさんからバトンの渡ったBさんとCさんが次の3日間書き、それぞれがまた次の2人にバトンを渡して、というふうに流れが続いてきているようで、一時期話題になった“アイスバケツ・チャレンジ”を思い出しました。
で、縁あってその流れのはじっこに今自分がいる次第ですが、私自身はこのあたりにエアでバトンを置いておきますので、興味のある方はご自由にお持ち帰りください。それだとあとにつながらないじゃん?という話になるわけですが、テーマには興味があるけど次のアテがないから書きませんというのもどーかなと思ったもので、勝手に書きます。あしからずどうぞ。

と、前置きが長くなりましたが本文は長くないです(爆)。
自分にとって映画は三度の飯と同じくらい好きなもの。中でも好きなのがアクション映画で、なぜアクション映画が好きなのかあらためて考えてみるとサテなぜだろうと思ったりもするんですが、もともとダンスでもスポーツでもなんであれ卓越した身体能力を持つ人のパフォーマンスに理屈抜きで惹かれる自分がまずあって、だから映画でいうならアクションもの、とりわけ功夫映画に代表される生身で戦う系がこれまた理屈抜きで好きなのでした。
アクション映画は暴力がつきもので、善と悪がはっきりしていて、正義の味方が悪と戦ってこれを倒すというのがお約束。万事休すの状況に追い込まれた主人公が最後のギリギリのところで形勢逆転に持ち込んでいくカタルシスこそがアクション映画のキモであります。
それってつまり暴力の正当化?と感じる人がいるとしたら、おそらくアクション映画に興味がないか苦手なのだと思います。それを論破する自信はないというのが正直なところですが、少なくともアクション映画は暴力を推奨するために作られてるわけじゃない。
ちょっと記憶があやふやですが、以前、ジェット・リーに対し「あなたは敬虔な仏教徒なのに、なぜ暴力的な映画に出るのですか」といったような質問が出たときのリーさんのコメントがふるってた。「暴力はいけないということを伝えるためです」と、そんなふうに答えてニコニコしてました。同じようなやりとりは確かジョン・ウー監督とマスコミの間でもあったような気がします(もちろん質問者は彼らにケンカを売るつもりはなく、彼らもその程度の質問は慣れっこなはず)。
その気のきいたコメントをちょっと拝借するならば、バイオレンスたっぷりのアクション映画もつきつめていえば平和の大切さを伝えるため、なのかもしれません。だってエンディングではもれなく平和が訪れる。一抹のむなしさや無力感もたたえつつ。
いずれにせよリーさんにしてもウーさんにしても本人はものすごくピースフルな方たちであるのはまちがいなく、逆にいえばそういう人たちが作っているから安心して虚構を楽しめる。映画は虚構の世界だけど、アクションスターやスタントマンたちの身体能力そのものにウソはない。演じながらも動きはホンモノ、そのすごさに感服しないでいられないのが自分にとってこの上なくアクション映画に惹かれるポイントかなと思います。
ちょっといじけていたり、へこんでいたり、体調が今イチだったりするとき、これぞ!というアクション映画を見ると元気になれます。「燃えよ!ドラゴン」や「ロッキー」を見たあと、身も心も軽くなって走り出したくなる(というか走り出す)、あれですよ。
なんかテーマに沿ってるようで沿ってないような気がしてきたので、本日はこれにて。(逃)